大喜利ポエム #020 「小学校・羊・バス」

帰ってきて家がなかったら、私の足は持ち上がりどこへでも行きたがるはずだと思う。


戦争はジメジメと20年は続き、面倒な親戚連中が順繰りにいなくなり、最後に私の家族だけが残った。NTTは民主党に投票する感じの死んでも懲りないかたがた向けに、結婚式とタモっていいとも以外に使われていなかったであろう電報を戦死者の連絡として使うプロパガンダに成功し、戦争ムードを盛り上げていった。その内竹林業界とタイアップして、七夕のお願いに代わってお悔やみ人を飾るようにするかもしれない。人の願いは表に出てきづらいことだから、人が消える圧倒的な事実の方がずっと目に付く。

おしなべて経営危機だった新聞やテレビ局も社員をあらかた解雇し、延々とお悔やみ放送を流すことに食い扶持を見つけた。もし私の子供の名前がダライ・ラマだったなら。テレビのお悔やみ放送に流れた途端大騒ぎになるかもしれないし、ならないかもしれない。誰も信じてくれないけれどもそれは私がまだ子供を作れる時間の限りにはありえない話ではないのだ。


辛い時期はずっと続くように見えるけれども、ある時突然に切れるものだと言う事は経験的に分かっているのに、それでもやっぱり中にいるときははそのつらさに忘れてしまう。だいたいみんなそんなに長くは生きられないのだから、少しでも多くの期間楽しい方がいいと思う。私の育つ過程には常に戦争があった。


「私が生まれる前にはもう、母は父の事が大嫌いだったんだ。」

昼に母と追いかけっこをしていた道を、夜中私は泣きじゃくりながら走り、父はそう叫びながら私を追いかけたのだった。

それは小学校に入った冬のことで、私は幼稚園に入っていなくて、子供たちにとけこめなかった。私は恨むことを知らなくて、ただただどうにかならないものかと困るのだった。

毎年かかさずにあった同窓会が今年はなかった。きっともう無いのかもしれない。



京都駅行きのバスはなかなかに来なかった。数え切れない羊が目の前を走り去って、私を運んでいった。突然大雨が降り出したら、電話をしていた。

「コスモはもう寝てしまったよ。だから犬はもう鳴かないよ。」


やっぱり戦争は終わった。兵隊は泡を吹いて生き絶えており、戦後処理は事務方によって粛々と進められた。でも私の足は持ち上がらなかった。


「また失敗作だ。」肩を落とし、私はつぶやいた。周りは水浸しになっていて、私は銀行で2ヶ月前の女性自身を手に取りなぜ女性誌には韓国人の全裸姿がないのだろう、などと考えていた。