第一回八文賞招待作品「テーマ:あの人」

0. 抗えなさ

予定されたままにリリーフが崩れる。阪神戦をみている。自分が生まれるもっと前、ジュラ紀とかそんな頃から今日の逆転負けが決まっていなのではないかと、その事実の軽さと覆らなさに打ちのめされる。あが監督ならば言うだろう「ジュラ紀から。」いま書いていることだ。


1. たかしんのこと

タカダシンヤ君、たかしんと出会ったのは高校の時で、そんなに50音順が近かったわけでは無いのだけれども、男子が7人しかいなかったから入学式の後たかしんはぼくの後ろの席に座っていた。だいたい5人でつるんでいた。いま、思い起こされる面々にどうしても計算が合わなくて、たぶん男子は13人とかいた。

御所の向こう側、今出川のハンコ屋さんに生まれたたかしんは、いつも洗濯してもよれない服を着ているのだけれども、その育ちの良さと、吉田栄作みたいな両分けと、こざっぱりしてる割に少し肉厚な上半身がそれを必要以上に爽やかに見せていた。椎名誠の本が揃っていた。赤盤青盤があった。中学をサッカー部で過ごしたぼくよりサッカーが上手かった。御所の玉砂利でサッカーしていたように思うが、自信がない。同じテレメッセージのベルだった。

サンヨーのステレオコンポからはリンドバーグやら尾崎やらチューブが流れていて、それはたぶん彼の姉のエリさんの影響だったからと思うのだけれども、その頃には既に懐かしかった。

たまに行くカラオケは、駆け抜けた季節のどんな場面も出会った日の2人がリプレイしていて、サヨナラをあげる、と、ガンバらなくちゃね、の区別がどうしてもつかなくて、ぼくはサヨナラをあげるのリズムでガンバらなくちゃねを歌うのだけれども、たぶん何十度と繰り返したけれども、今思えばさしてうけてもいなかったと思う。面白いことするとかうけるとか、たぶんぼくらには必要がなかった、いま思えばその後未だ訪れない日々だった。

ぼくらは鴨川で女子大生にナンパされたあの夜のことを3年間ずっと酒のツマミにしていた。モリくんが途中1時間くらい消えたとか、ユムラは穴ぐらでなにかゴソゴソしていた、とか。高3の時に幾人かにちょこちょこっと波風は立ったものの、基本的に学園生活を通してぼくらの思春期に介在する者はなかった。

みんながみんな、さして達成感も挫折も味わうことなく過ごし、離散に至った。おそらく百幾度は通った今出川のハンコ屋についぞ客がいるのを見ることはなかった。あの頃ぼくらは渡瀬マキに恋をしていた。叶わぬ恋。

客観的に家庭はひどいものだったが、東京へのパスを手に入れた時、ぼくはいよいよおかしくなった。

我に返る。たかしんは?お前、そういうとこだぞ。 


2. 熱帯魚ーズ的な

恥ずべき露悪性は既に出現していたように思う。スクールカースト高めの女子を熱帯魚ーズと呼ぶことで距離感を図り、自己の生存戦略を、勝ち目が見込めるオザケン女子とせめぎあいをすることに置いていた。ぼくの頭のEXILEは小2の時、アリーナ姫と呼ばれていた久保さんをクボ45と九九呼びしたせいで教壇で頭をかち割られたからだ。久保さんと両親はたしかヨックモック的なもので許されたはずだ。

失くしたものとこの先失くすものを考える。人生は役割を終え、既に降りている。耳鳴りが止まない。風景の中に溶けゆきたい。生きるも死ぬもなく生き延びている。水平線の向こう側、生きてきた痕跡はほしいのだろうか。底土に新たに実在することとなったピンクの犬や、メンヘラちゃんとの交友などなど。

誠実な言葉は追いやられ、投げやりになれば人が囲んでくれることに味をしめる。だいたい3年で消耗させてしまう。出会いたくなかったし、お互い嫌な気持ちになることもなかった。日々の固まりから1人、ほどこしを続けてくれる人がいる。わりあい積極的に。物心つき30余年、そのペースでだいたい10人の友人がいる。その中にたかしんはいない。たかしんに会いたい。でも、さして謝ることもない懺悔は、どこへ向かうものなのだろう。

渡瀬マキのことを考える。その首の長さや [     F     ] や覚醒剤の禁断症状。そのリアリティのなさから浮き上がる実在性。ぼくにはその帰無仮説を棄却することができる。ノッコでもナオコでもなく、渡瀬マキでしか駄目なのです。田中美佐子加藤紀子も好きだ。
3人目がやってくる。相対性に籠城するぼくを引き摺りだしてほしい。あなたに会いたい。

 


問1.Fに入る言葉を答えなさい。
A 真っ直ぐな歌
B 血液クレンジング
C 飼い犬
D パトロン

 

問2.最終文「あなた」とは誰を指しますか。
A  たかしん
B  3人目
C  渡瀬マキ
D  読み手

 

問3. 筆者が「たかしん」を通じて伝えたい事は何でしょうか。
A 戻らない過去を懐古している
B 親友への渇望を独白している
C 後悔から教訓を得ようとしている
D 沈黙を言葉で埋めている

 

問4. あなたは心の中に渦巻く醜い感情に苦しんでいました。心の奥底には深い虚無感が広がり、次第に抗う意欲を失っていきました。最初の頃は、ただの腹痛や体のだるさだけだったのも、次第に激しさを増し、苦痛が支配していきました。吐き気に襲われるたびに、蝕まれゆく肉体を感じていました。孤独な生活の中で、自分自身と向き合う時間が増えていきました。自分の無力さを痛感していました。「なぜこんな目に遭わなければならないんだろう」と自問自答しました。心はどんどん脆くなりました。もはや希望を持つことができず、日々をただ生き延びることに疲弊していきました。魂は深く閉ざされ、もがき苦しむ姿が心に焼き付いていました。孤立し、誰も手を差し伸べることができなくなりました。一人きりで時間が過ぎていくのを感じていました。心はすでに折れていました。最期は静かに訪れ、そのまま消え去ったのです。存在は誰にも気付かれることなく、ただ過ぎ去っていったのです。痛みと苦しみは、誰の手にもよって救われることはなく、ただ消えていったのです。

猫大好きフリスビー

ぼちぼちなにか書こうかと思ってます。猫がいない生活にもなれました。


以下、評判の良いネタ再放送。


大喜利ポエム#011「自己PR・三輪車・珊瑚礁
http://d.hatena.ne.jp/laos/20090217/1234873048


大喜利ポエム#008「フラフープ・甘酒・影」
http://d.hatena.ne.jp/laos/20090208/1234105162


大喜利ポエム#003 「竹ノ塚・履歴書・タバスコ」
http://d.hatena.ne.jp/laos/20090128/1233068448


大喜利ポエム#014「宅配・ゴマ・内線」
http://d.hatena.ne.jp/laos/20090227/1235741896


大喜利ポエム#016「リストラ・黒人・博物館」
http://d.hatena.ne.jp/laos/20090809/1249812970

大喜利ポエム #021 「たぬき・シャネル・電光掲示板」

目黒駅前にたぬきが出現。相武紗季が交差点で追突した次の日の早朝だった。冬の朝の空気は澄んでおり、静かな重みだけが時折寄せては返すだけの風景にたぬきが現れたのだ。


バス停には妹が待っていた。ロータリーに大井競馬場行のバスが入ってきて共に乗り込む。

「バスが来なかったの。全然」おなかの大きくなった妹は荷物を持たされた子供のように不機嫌で、赤いシャネルの鞄を持っていた。もう車には乗らないほうがいいんじゃないかと聞くと、「しょうがなんや、母は仕事だし姉さんは車持ってないしで。しょうがないんや」と。

妹が不機嫌なのも無理はない。実際バスは来なかったし、家族の彼女への扱いはあまりにおざなりだった。まだ暗いうちにはもうすることがなくなっていたのに、バスに乗れたのは7時近くになっていた。明るくなった駅前からはウエンディーズがなくなって一層寂しくしていた。ウエンディーズはその後、何になるのだろうか。おおかたすき家にでもなるのだろうと思っていたら、本当にすき家になった。


バスは兄を迎えに行くために走る。兄は手相専門の整形外科医になると言って家を飛び出し、結果的にはサッカー選手になった。手相を変えたことで人生が変わることを、彼は身をもって証明した。しかし、おかしな所までつけた結果、彼は今留置場にいる。色狂いになってしまった兄は、もう誰も手をつけられなかった。手相はこんなにも簡単に人の未来を強引に変えてしまうのだ。

兄が毒気にやられる前、まだまともだった時には、概ねのことが手相で決まることをよく聞いた。そして、透明人間になった今、われわれが為すべきことはなにか。それは女湯をのぞくことだ。


体だけの割り切ったお付き合いをしている友人の親父がお寺の住職で、の鐘つき機が高いことを愚痴っていたことを思い出した。業者が奈良に1つしかないのだと。決まった時間に鐘つきがないと苦情がくるらしい。くそ坊主も近隣の皆様によって生活させてもらっているのだからそれくらいは仕事しろよなと思う。


「たぬきは何をしにきたのか?」パチンコ屋の宣伝をしたり、隣のカメラ屋で100円パソコンを売ったりしていたのは兄だった。電光掲示板に書かれていたのは私の行き先で、そこには私の帰る家があった。性欲があふれてバスを爆破。まぁ、あの小さなバス溜まりにそんな設備があればのことだが。


明日はひな祭りでものごころもついていない子供を奉るのだ。


大喜利ポエム #020 「小学校・羊・バス」

帰ってきて家がなかったら、私の足は持ち上がりどこへでも行きたがるはずだと思う。


戦争はジメジメと20年は続き、面倒な親戚連中が順繰りにいなくなり、最後に私の家族だけが残った。NTTは民主党に投票する感じの死んでも懲りないかたがた向けに、結婚式とタモっていいとも以外に使われていなかったであろう電報を戦死者の連絡として使うプロパガンダに成功し、戦争ムードを盛り上げていった。その内竹林業界とタイアップして、七夕のお願いに代わってお悔やみ人を飾るようにするかもしれない。人の願いは表に出てきづらいことだから、人が消える圧倒的な事実の方がずっと目に付く。

おしなべて経営危機だった新聞やテレビ局も社員をあらかた解雇し、延々とお悔やみ放送を流すことに食い扶持を見つけた。もし私の子供の名前がダライ・ラマだったなら。テレビのお悔やみ放送に流れた途端大騒ぎになるかもしれないし、ならないかもしれない。誰も信じてくれないけれどもそれは私がまだ子供を作れる時間の限りにはありえない話ではないのだ。


辛い時期はずっと続くように見えるけれども、ある時突然に切れるものだと言う事は経験的に分かっているのに、それでもやっぱり中にいるときははそのつらさに忘れてしまう。だいたいみんなそんなに長くは生きられないのだから、少しでも多くの期間楽しい方がいいと思う。私の育つ過程には常に戦争があった。


「私が生まれる前にはもう、母は父の事が大嫌いだったんだ。」

昼に母と追いかけっこをしていた道を、夜中私は泣きじゃくりながら走り、父はそう叫びながら私を追いかけたのだった。

それは小学校に入った冬のことで、私は幼稚園に入っていなくて、子供たちにとけこめなかった。私は恨むことを知らなくて、ただただどうにかならないものかと困るのだった。

毎年かかさずにあった同窓会が今年はなかった。きっともう無いのかもしれない。



京都駅行きのバスはなかなかに来なかった。数え切れない羊が目の前を走り去って、私を運んでいった。突然大雨が降り出したら、電話をしていた。

「コスモはもう寝てしまったよ。だから犬はもう鳴かないよ。」


やっぱり戦争は終わった。兵隊は泡を吹いて生き絶えており、戦後処理は事務方によって粛々と進められた。でも私の足は持ち上がらなかった。


「また失敗作だ。」肩を落とし、私はつぶやいた。周りは水浸しになっていて、私は銀行で2ヶ月前の女性自身を手に取りなぜ女性誌には韓国人の全裸姿がないのだろう、などと考えていた。


大喜利ポエム #019 「美味・かれん・修得」

実際のところ、私はそうとうに煮詰まっているのだ。
あなたは私が1週間も何も書けないのを見かねて、実家にでも行って休まないと、どうにかなりそうだった。

メンタルヘルスのリハビリで温泉に毎日行くけれども、夕方には眠くなって困ってしまう。
もう決定的に体調が悪くて、口の中にはできものができて食事をとるのも一苦労だった。

高校の友人の子供は、双子だった。




美味

かれん

修得



孫のできた母親は、来週子宮ガン検診だ。
兄が失踪したのは冬になりかけの日曜日の夜だった。

横浜の山の上のアパート

を気に入って住みだした。犬をいづれ私も結婚するのかなあと思う。


起きたら頭がいたくて、舎人ライナーに乗りに行かなきゃで。
いろんなことがどうでもよくなって、いつもの静かな時に戻った。

兄を乗せたモノレールがゆっくりと通り過ぎていった。

お盆が過ぎたら高校野球が終わって、高校の同級生が死んで秋が来た。

兄との仲をこじらせたのはささいなきっかけで、

地下鉄の駅の長い道に風が吹いた。
私が屋上でビールを飲みながら、大きな雨がうねって台風になった。

たことのある景色を見たかった。
京都、ラオス、北九州、阿佐ヶ谷、


家を持とうと思ったのは、私に地面が必要だったから。
大家業における収益とは、人に環境を与え、彼らから時間を吸い取ること。

ストックとフロー、生産と消費をコントロールすることができるようになって、私の心はようやく安定するようになった。
私は不安定なものを積み重ね、その上に立つ支配者である。

大喜利ポエム #018 「水着ギャル・破魔矢・家出犬」

※注:この文章はコラージュによる創作であり、犯行予告等の類ではありません。


 尚子さん元気ですか。僕は団地の1つ下の階には毎日行くので、尚子さんもぜひ来てもらって、その時会いましょう。お金のない39歳を見たら、すぐに打ち解けると思う。

 この前、下の10回忌の父の墓で超かわいい家出犬をごちそうになりました。眩しすぎて目がくらみました。僕は陽気な童顔だけどお金が苦しいので、見ていて最高でした。

 昨日、闇の子供たち買っちゃいました。僕の破魔矢が花火大会です。妻子とはいろんなことがあったので、今度あったらショッキングな話をたくさんしましょう。僕と弟で織姫と彦星なので、カミさんとは問題のようで寂しいです。

 昨日は妹の誕生日で、酒がほしいと思っていたのであまり出かける余裕もないです。私には夢があります。いつか絶対に妹を愛する人間として、妹の女の部分をものすごく見たいんです。浴衣姿で。いやとか言われたら超悲しいです。妹の友達でもいいです。9月の26日、27日代々木公園ですよ。兄としてつかまらないようにうまくやりたいです。

 インドフェス行けるようになったら言ってください。8月14日に人身売買があり、4月に産まれたばかりの気さくな3人兄弟の水着ギャル(ビキニ)をつれて実家に来ます。8月中はおじさんといろんな所でやってるので、一緒に行きませんか?絶対に来てください。

 それじゃまた。


追伸:今年の夏はたぶん藤子・F・不二雄がIT企業に勤めて、悪い男になります。見ていて悲しいので守ってあげたい。


大喜利ポエム #017 「はんなり豆腐・はみがき・うちわ」

私がほぼ面識のなかった父方の祖母に預けられたのは、中学2年のことだった。
京都と兵庫の県境の小さな町で、祖母は一人で暮らしていた。行き場のない私に対し両親が知恵を出し合った結果、絶縁状態の祖母に預けるというウルトラCを完成させたのだ。


小さな坂の下の敷地に立つ、一棟3世帯の町営住宅に祖母は住んでいた。そこには町の補助を受けて暮らす、祖母含めて3人のおばあちゃんが住んでいた。3人のおばあちゃんは、昼になるとおばあちゃん達が共同軒先で暑い暑いとつぶやく。日が落ちると3人で坂の上の生協まで買い物にでかける。

それはまるで3匹のカメが夕暮れの波にまかせて海を彷徨っているようだと思った。


率直に言って、祖母は私の生活態度が気に入らないようだった。

音をたててものを食うな。15歳で箸もまともにもてないのか。その猫背はどうにかならないのか。私の生活のあらゆる時間を侵食したが、何よりも覚えているのは私ははみがきをしないことだった。

私ははみがきがきらいだった。はみがきをしなくても虫歯なんてできなかったし、歯科検診でほめられていた。私の歯に虫歯が付け入るスキなどなかった。その思いをビールを飲んだ後(祖母は一人で飲むのが寂しいのでいつも私にビールを飲ませた)、酔いにまかせて30分ばかしくどくど説明したところ、それから祖母は何も言わなくなった。

なんとなく気まずい気分になって、私は「あー今日も1日がんばった。はみがきして寝よう。」わざとらしくつぶやいて居間を出るようになった。たいていの日私は、はみがきをした後に自分の部屋でお菓子を食べて寝た。



ある日、祖母の家(つまり、私の家だ)に、従兄弟の直子が泊まりに来た。祖母が常日頃から長距離走の特待生だと自慢していた、あの直子だった。私と同じ名を持って生まれた直子は、推薦で大阪の大学に入学したばかりだった。

私の一族は元来からろくな家系ではなかったが、直子の母がパチンコで夫の金を使い込み一時期行方をくらましたことがあるくらいで、祖母の子供たち5人の中では相対的にはまともであったし、少なくともはじめから家族生活の体をなしていない(少なくとも外からはそう見える)、私の家よりずっとまともに見えた。祖母も一番年長の娘の家系として子供がいち早く育っていく所を見ていたので、8年遅れて生まれた長男、つまり私の父の家よりも肩を持っているようだった。


「あれ、まぁ。扇風機が壊れとるで。全然動かれへんわ。こりゃ暑うてたまらんな。」

私が部屋で本を読んでいた時、祖母の声が部屋から聞こえた。いそいそと居間に出ると、祖母はもう扇風機を見捨て、夕食の用意に戻ったところであった。扇風機はカラカラと、むなしく噛み合わない音を立てているだけだった。まもなくして風呂に入っていた直子があがってくる音が聞こえた。


「ほら尚ちゃん、直子が暑がっとるやろうが。うちわでもなんでも持ってきて涼しくしてやり。。」

直子は祖母に「おばあちゃん、ええのよ、そんなん。」と言っていたが、耐え切れぬ暑さだったのだろう。シャツをを弛めて肌を出し「尚ちゃん、ほなあおいでもろてええか。」と私に言った。

私は黙って直子の背中をうちわであおいだ。直子の真っ白い背中から、水玉のように汗が出ていた。私は白い背中にふれたい衝動をおさえながら、ぼんやりとうちわを左右に振った。私は食事までのその時間を何時間ものように長く感じた。

骨の浮き出た白い皮膚が目に焼きつき、その日の夜、私は眠ることができなかった。


直子が2晩泊まって大阪に帰った日の夜、祖母が食事を取りながら「直子は私の若い頃にそっくりだ」と言った。「直子の結婚式には這ってでもいきたい」と言った。私は毎晩、その話を聞いてるふりをしながら祖母の背中をあおぎ続け、50年前の祖母と直子を結び付けようとしていた。それは電気屋の人が新しい扇風機を持ってくるまで続いた。


祖母は昨年の夏から寝たきりとなり、冬の間にその顔に死相が巣食った。祖母が最期の時を迎えようとしていることは明らかだった。

祖母が死んだら、あの日以来会っていない直子に会える。30歳を越えた直子の背中はまだ細くて白いだろうか。