大喜利ポエム #017 「はんなり豆腐・はみがき・うちわ」

私がほぼ面識のなかった父方の祖母に預けられたのは、中学2年のことだった。
京都と兵庫の県境の小さな町で、祖母は一人で暮らしていた。行き場のない私に対し両親が知恵を出し合った結果、絶縁状態の祖母に預けるというウルトラCを完成させたのだ。


小さな坂の下の敷地に立つ、一棟3世帯の町営住宅に祖母は住んでいた。そこには町の補助を受けて暮らす、祖母含めて3人のおばあちゃんが住んでいた。3人のおばあちゃんは、昼になるとおばあちゃん達が共同軒先で暑い暑いとつぶやく。日が落ちると3人で坂の上の生協まで買い物にでかける。

それはまるで3匹のカメが夕暮れの波にまかせて海を彷徨っているようだと思った。


率直に言って、祖母は私の生活態度が気に入らないようだった。

音をたててものを食うな。15歳で箸もまともにもてないのか。その猫背はどうにかならないのか。私の生活のあらゆる時間を侵食したが、何よりも覚えているのは私ははみがきをしないことだった。

私ははみがきがきらいだった。はみがきをしなくても虫歯なんてできなかったし、歯科検診でほめられていた。私の歯に虫歯が付け入るスキなどなかった。その思いをビールを飲んだ後(祖母は一人で飲むのが寂しいのでいつも私にビールを飲ませた)、酔いにまかせて30分ばかしくどくど説明したところ、それから祖母は何も言わなくなった。

なんとなく気まずい気分になって、私は「あー今日も1日がんばった。はみがきして寝よう。」わざとらしくつぶやいて居間を出るようになった。たいていの日私は、はみがきをした後に自分の部屋でお菓子を食べて寝た。



ある日、祖母の家(つまり、私の家だ)に、従兄弟の直子が泊まりに来た。祖母が常日頃から長距離走の特待生だと自慢していた、あの直子だった。私と同じ名を持って生まれた直子は、推薦で大阪の大学に入学したばかりだった。

私の一族は元来からろくな家系ではなかったが、直子の母がパチンコで夫の金を使い込み一時期行方をくらましたことがあるくらいで、祖母の子供たち5人の中では相対的にはまともであったし、少なくともはじめから家族生活の体をなしていない(少なくとも外からはそう見える)、私の家よりずっとまともに見えた。祖母も一番年長の娘の家系として子供がいち早く育っていく所を見ていたので、8年遅れて生まれた長男、つまり私の父の家よりも肩を持っているようだった。


「あれ、まぁ。扇風機が壊れとるで。全然動かれへんわ。こりゃ暑うてたまらんな。」

私が部屋で本を読んでいた時、祖母の声が部屋から聞こえた。いそいそと居間に出ると、祖母はもう扇風機を見捨て、夕食の用意に戻ったところであった。扇風機はカラカラと、むなしく噛み合わない音を立てているだけだった。まもなくして風呂に入っていた直子があがってくる音が聞こえた。


「ほら尚ちゃん、直子が暑がっとるやろうが。うちわでもなんでも持ってきて涼しくしてやり。。」

直子は祖母に「おばあちゃん、ええのよ、そんなん。」と言っていたが、耐え切れぬ暑さだったのだろう。シャツをを弛めて肌を出し「尚ちゃん、ほなあおいでもろてええか。」と私に言った。

私は黙って直子の背中をうちわであおいだ。直子の真っ白い背中から、水玉のように汗が出ていた。私は白い背中にふれたい衝動をおさえながら、ぼんやりとうちわを左右に振った。私は食事までのその時間を何時間ものように長く感じた。

骨の浮き出た白い皮膚が目に焼きつき、その日の夜、私は眠ることができなかった。


直子が2晩泊まって大阪に帰った日の夜、祖母が食事を取りながら「直子は私の若い頃にそっくりだ」と言った。「直子の結婚式には這ってでもいきたい」と言った。私は毎晩、その話を聞いてるふりをしながら祖母の背中をあおぎ続け、50年前の祖母と直子を結び付けようとしていた。それは電気屋の人が新しい扇風機を持ってくるまで続いた。


祖母は昨年の夏から寝たきりとなり、冬の間にその顔に死相が巣食った。祖母が最期の時を迎えようとしていることは明らかだった。

祖母が死んだら、あの日以来会っていない直子に会える。30歳を越えた直子の背中はまだ細くて白いだろうか。